
2015年11月13日 [家系図]
江戸明治の婚姻
先日、家系図作りで戸籍を見ていたところ、明治初期の女性で8歳で婚姻の記録がありました。今まで14,5歳というのはありましたが、昔は早婚だったとは言え8歳というのは初めてです。もしかして「縁女」なのかとも思いましたが、その場合、戸籍には「婚姻」ではなく「縁女」と記載されます。「縁女」というのは、将来、戸主の子などと婚姻させる目的で幼女を入家させることで、明治時代にあった制度です。
ただ、特に明治時代に作られたような古い戸籍には明らかに誤りというような記載を多々目にしますので、もしかすると出生年月日か婚姻年月日のいずれかに間違いがあるのかもしれません。
ところで、江戸時代の結婚は、家と家との縁組みでした。御家の存続が重視されていた江戸時代ですから、結婚して一家の主人、主婦になることが、死後「先祖」として祀られる要件でした。そのため、成人後も結婚しない者や、離婚して家に戻った者は、「厄介」と言われ、亡くなっても無縁仏として扱われていました。
江戸時代の離婚について、「三下り半」と言われる離縁状や離婚したい女性が駆け込む「縁切り寺」は有名です。数年前、鎌倉へ散策に出かけた時、縁切り寺で有名な東慶寺に立ち寄りました。その際、教えてもらったことは、縁切り寺に入るためには多額のお金が必要だったとのことですので、それなりに裕福な家庭でないと駆け込むことはできなかったようです。
また、当時、離婚というと男性のみに決定権があったように思っている人が多いかもしれませんが、実際には、夫婦の間に仲介者が入って協議することが多く、妻から夫に離縁状を書くよう頼むこともありました。
いわゆる「三下り半」は、夫が妻と離婚するという離婚文言だけでなく、以後、誰と結婚しても構わないという「再婚許可文言」も書かれており、女性は再婚する自由もあったようです。
ただ、特に明治時代に作られたような古い戸籍には明らかに誤りというような記載を多々目にしますので、もしかすると出生年月日か婚姻年月日のいずれかに間違いがあるのかもしれません。
ところで、江戸時代の結婚は、家と家との縁組みでした。御家の存続が重視されていた江戸時代ですから、結婚して一家の主人、主婦になることが、死後「先祖」として祀られる要件でした。そのため、成人後も結婚しない者や、離婚して家に戻った者は、「厄介」と言われ、亡くなっても無縁仏として扱われていました。
江戸時代の離婚について、「三下り半」と言われる離縁状や離婚したい女性が駆け込む「縁切り寺」は有名です。数年前、鎌倉へ散策に出かけた時、縁切り寺で有名な東慶寺に立ち寄りました。その際、教えてもらったことは、縁切り寺に入るためには多額のお金が必要だったとのことですので、それなりに裕福な家庭でないと駆け込むことはできなかったようです。
また、当時、離婚というと男性のみに決定権があったように思っている人が多いかもしれませんが、実際には、夫婦の間に仲介者が入って協議することが多く、妻から夫に離縁状を書くよう頼むこともありました。
いわゆる「三下り半」は、夫が妻と離婚するという離婚文言だけでなく、以後、誰と結婚しても構わないという「再婚許可文言」も書かれており、女性は再婚する自由もあったようです。