
2014年09月03日 [暮らし]
青い目の人形
昨日(9月2日)、行政書士研修を受けるため、神奈川県行政書士会のある産業貿易センタービルへ出かけてきました。午前10時から始まるところ1時間くらい早く着いたので、目の前にある山下公園に行って時間調整をしてきました。山下公園は、私が学生時代に横浜桜木町近くでアルバイトをしたことがあり、その頃、よく出かけたお気に入りの所です。山下公園付近には、中華街、港が見える丘公園、元町、赤レンガ倉庫、外人墓地、イギリス館、フランス館、マリンタワー有名なベイブリッジ、氷川丸、帆船日本丸、ランドマークタワーなどの名所が多数あり、異国情緒を感じる眺めもとてもきれいな所です。
山下公園に隣接した所に「横浜人形の家」という世界の人形を展示している施設があります。その施設と山下公園を結ぶ歩道橋があるのですが、そこの一角に「青い目の人形」の像があります。大分前に本で読んだ記憶があったので立ち寄ってみました。

青い目の人形像
家に帰ってから、その本を探してみました。みなさんの中には「青い目の人形」の話を知っている方もいるかと思いますが、せっかくの機会なので紹介したいと思います。
以下は、産経新聞社「教科書が教えない歴史」からの一部抜粋(要旨)です。
「青い目をしたお人形は」という歌はご存知かと思いますが、青い目の人形は、昭和の初めに本当に海の向こうからやってきたものなのです。
昭和2年のことです。日本とアメリカの関係は、排日移民法の制定なのでだんだん冷たいものになっていました。日本で20年間宣教師をしていたシドニー・ジューリックはそのことを心配した一人でした。アメリカに帰国したのをきっかけに、日米の子供たちとの交流のため「人形計画」を提案しました。
その計画はギューリックの予想を超えて広がり、学校、教会関係者約260万人の人々がお金を出しあって、1万2700体もの「青い目の人形」を日本に送ることになったのです。
日本には当時、小学校、幼稚園あわせて約2万5千校あったので、2校に一つの割合で受け取ることになりました。
日本でもお返しをしなければ、といろいろ考えられた結果、人形を受け取った学校の女子児童の寄付を募って、最高級の三つ折り人形58体をクリスマスに間に合うように送ることになりました。
その14年後、不幸なことに両国は戦争をすることになってしまいました。それぞれの人形はどうなったのでしょうか。
アメリカに渡った日本人形の半分くらいの健在は確認されています。ノースカロライナ州立自然歴史博物館保存の日本の人形の傍らには戦時中「われわれは平和と善意、人間どうしが自由に生きることの信念を捨ててはいない。この人形はかつての親善を示す友情の人形である」と書かれていたそうです。
一方、日本に来た青い目の人形は、戦火やさまざまな理由で、その多くが失われてしまいました。中にはアメリカ憎しで壊されてしまったものもありました。でも戦後、200体以上の人形が無傷のまま守られていたことがわかりました。非国民と呼ばれることを覚悟で人形を守った人もいました。当時小学校の教頭だった群馬県の金子武男さんはその一人です。人形「メリー」を隠す決心をした金子さんはそのときの気持ちをこう語っています。
「(教え子を戦争へ)行かせたくなかった。お人形さんのように箱にでもしまってかくしておけるものなら・・・と思ったねえ。お人形さんよ、おまえを守るからどうかあの子たちを守ってくれ。そんな気持ちで人形を隠したのです」(武田英子著「青い目をしたお人形は」)
日本中が敵がい心をあおられ、神風を信じた中でこういった行動をとった人がいたことを私たちは誇りにしてよいと思います。(森脇健夫)

写真中央には、「青い目の人形」と同じように、童謡「赤い靴を履いていた女の子」の海を向いて座っている像があります。右側には「氷川丸」、中央には「ベイブリッジ」が写っています。

写真右側には、三角形のビル「横浜国際平和会議場」(パシフィコ横浜)、その手前に「赤レンガ倉庫」、左端には「ランドマークタワー」の一部が写っています。
朝9時頃、山下公園から少し望遠で写したものです。当日は気温が26℃くらいで湿度も低くて、この時期としては考えられないくらいとても爽やかな日でした。
山下公園に隣接した所に「横浜人形の家」という世界の人形を展示している施設があります。その施設と山下公園を結ぶ歩道橋があるのですが、そこの一角に「青い目の人形」の像があります。大分前に本で読んだ記憶があったので立ち寄ってみました。

青い目の人形像
家に帰ってから、その本を探してみました。みなさんの中には「青い目の人形」の話を知っている方もいるかと思いますが、せっかくの機会なので紹介したいと思います。
以下は、産経新聞社「教科書が教えない歴史」からの一部抜粋(要旨)です。
「青い目をしたお人形は」という歌はご存知かと思いますが、青い目の人形は、昭和の初めに本当に海の向こうからやってきたものなのです。
昭和2年のことです。日本とアメリカの関係は、排日移民法の制定なのでだんだん冷たいものになっていました。日本で20年間宣教師をしていたシドニー・ジューリックはそのことを心配した一人でした。アメリカに帰国したのをきっかけに、日米の子供たちとの交流のため「人形計画」を提案しました。
その計画はギューリックの予想を超えて広がり、学校、教会関係者約260万人の人々がお金を出しあって、1万2700体もの「青い目の人形」を日本に送ることになったのです。
日本には当時、小学校、幼稚園あわせて約2万5千校あったので、2校に一つの割合で受け取ることになりました。
日本でもお返しをしなければ、といろいろ考えられた結果、人形を受け取った学校の女子児童の寄付を募って、最高級の三つ折り人形58体をクリスマスに間に合うように送ることになりました。
その14年後、不幸なことに両国は戦争をすることになってしまいました。それぞれの人形はどうなったのでしょうか。
アメリカに渡った日本人形の半分くらいの健在は確認されています。ノースカロライナ州立自然歴史博物館保存の日本の人形の傍らには戦時中「われわれは平和と善意、人間どうしが自由に生きることの信念を捨ててはいない。この人形はかつての親善を示す友情の人形である」と書かれていたそうです。
一方、日本に来た青い目の人形は、戦火やさまざまな理由で、その多くが失われてしまいました。中にはアメリカ憎しで壊されてしまったものもありました。でも戦後、200体以上の人形が無傷のまま守られていたことがわかりました。非国民と呼ばれることを覚悟で人形を守った人もいました。当時小学校の教頭だった群馬県の金子武男さんはその一人です。人形「メリー」を隠す決心をした金子さんはそのときの気持ちをこう語っています。
「(教え子を戦争へ)行かせたくなかった。お人形さんのように箱にでもしまってかくしておけるものなら・・・と思ったねえ。お人形さんよ、おまえを守るからどうかあの子たちを守ってくれ。そんな気持ちで人形を隠したのです」(武田英子著「青い目をしたお人形は」)
日本中が敵がい心をあおられ、神風を信じた中でこういった行動をとった人がいたことを私たちは誇りにしてよいと思います。(森脇健夫)

写真中央には、「青い目の人形」と同じように、童謡「赤い靴を履いていた女の子」の海を向いて座っている像があります。右側には「氷川丸」、中央には「ベイブリッジ」が写っています。

写真右側には、三角形のビル「横浜国際平和会議場」(パシフィコ横浜)、その手前に「赤レンガ倉庫」、左端には「ランドマークタワー」の一部が写っています。
朝9時頃、山下公園から少し望遠で写したものです。当日は気温が26℃くらいで湿度も低くて、この時期としては考えられないくらいとても爽やかな日でした。