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2014年09月23日 [家系図]

家紋見間違い事件

昨日、当事務所のホームページに新たに「家紋の豆知識」をアップしました。興味のある方はご覧ください。
家紋に関する有名な事件がありますので、ご紹介します。

戦国時代以前の武将は、思い思いの衣服を着ていましたが、江戸時代の平和な時代になると、武士が紋付きを用いるのが一般的になりました。服に家紋を入れることによって、自分が誰かを明らかにするためで、当時、紋付きを用いることが奨励されました。
上野国安中藩主であった板倉勝清の分家にあたる板倉勝該(かつよし)は、日ごろから本家を恨んでいました。本家である勝清が自分を隠居させて、勝清自身の庶子を養子に送り込み後釜に据えようとしていたためでした。勝該の家は上流の旗本であったが、勝清は安中藩主を継げない庶子の一人に旗本の地位を与えようとして幕閣に色々と働きかけをしていたのです。
そんな中、延享4年(1747)8月16日、江戸城内で重臣たちが将軍に拝賀を述べる行事が開かれた際、勝該は憎き勝清と思われる者が一人で歩いている後ろ姿を見たのです。怒りが一気に湧き上がった勝該は、後ろからその人物に斬りつけました。しかし、その者は板倉勝清ではなく熊本藩主の細川宗孝でした。勝該は、宗孝の九曜の紋章を板倉家の九曜巴の家紋と見間違えたのです。この事件によって細川宗孝は亡くなりました。
家紋が引き起こした悲劇でした。この事件の後、細川家は家紋を変更しました。

細川九曜

九曜巴紋

画像の上の紋は細川家の「九曜紋」で、下の紋は「九曜巴紋」です。
板倉家の家紋は「九曜巴紋」で九つの丸が全て三つ巴の模様になっているという違いのため、近くで見ないと同じに家紋に見えてしまうかもしれません。


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